西郷隆盛像はなぜ着流し姿?糸子の発言と鹿児島空港の巨大像を徹底解説

目次
西郷隆盛像はなぜ着流し姿?糸子の発言と鹿児島空港の巨大像を徹底解説
西郷隆盛像はなぜ着流し姿?糸子の発言と鹿児島空港の巨大像を徹底解説
@ creator • Click to Play Video Inline
🎵 西郷隆盛像はなぜ着流し姿?糸子の発言と鹿児島空港の巨大像を徹底解説

西郷隆盛像と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、犬を連れて歩く東京・上野公園の像ではないでしょうか。しかし、鹿児島市の城山を背景に立つ軍服姿の銅像や、鹿児島空港近くにそびえる高さ10.5メートルの巨大な西郷像も、それぞれ異なる歴史を持っています。

とりわけ興味深いのが、上野の西郷像を見た妻・糸子が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と語ったとされる逸話です。なぜ西郷隆盛は着流し姿で表現されたのか。義弟の西郷従道はどう反応したのか。そして、古賀忠雄が制作した巨大な西郷像は、なぜ鹿児島空港近くに建立されたのでしょうか。1987年の南日本新聞の報道から1988年8月28日の除幕式まで、代表的な西郷像の違いとともに、その背景を整理します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 着流し姿の理由:上野公園の西郷像は、軍服姿ではなく、犬を連れて狩猟に出かけるような普段着姿で制作された。
  • 妻・糸子の発言:像が本人に似ていないという意味だけでなく、人前に出る姿としてふさわしくないという服装への不満だったとする解釈がある。
  • 鹿児島空港近くの巨大像:古賀忠雄の遺作を鹿児島に建立したいという長男・古賀晟の意向と、溝辺町商工会立志会などの活動が実現につながった。

【まず整理】西郷隆盛像は1体ではない!代表的な3つの銅像

西郷隆盛像を調べる際に、最初に押さえておきたいのは、全国で知られる複数の銅像を区別することです。特に有名なのが、東京都台東区の上野公園、鹿児島市の城山近く、鹿児島空港前の西郷公園にある3体です。

それぞれの像は、制作された時代も作者も表現方法も異なります。同じ西郷隆盛を題材にしながら、ある像は親しみやすい人物として、別の像は国家的な功労者として、さらに別の像は鹿児島の誇りを象徴する存在として表現されています。

  • 上野公園の西郷隆盛像:高村光雲が中心となって制作した、犬を連れた着流し姿の像。1898年に除幕された。
  • 鹿児島市の西郷隆盛銅像:彫刻家・安藤照が制作した、陸軍大将の制服姿の像。1937年に完成した。
  • 鹿児島空港前の西郷隆盛像:彫刻家・古賀忠雄の作品。1988年に除幕された、高さ10.5メートル、重さ30トンの巨大な像。

この3体を混同すると、糸子の発言がどの像に対するものなのか、着流し姿がなぜ選ばれたのかという疑問の答えも曖昧になります。糸子の発言として広く知られる逸話は、1988年の鹿児島空港前の像ではなく、1898年に除幕された上野公園の像に関するものです。

当時のメディア報道・掲載写真
【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:photolibrary.jp)

【着流し姿の理由】妻・糸子の発言と西郷従道の反応

上野公園の西郷隆盛像は、和装の着流し姿で愛犬を連れて歩く姿が特徴です。軍人や政治家として歴史に名を残した人物でありながら、なぜ公式な制服ではなく、日常を思わせる姿で表現されたのでしょうか。

着流し姿は、狩猟に出かける西郷を表現したもの

上野の像は、犬を連れて兎狩りに出かける西郷の姿をイメージしたものとされています。作者の高村光雲らが手がけたこの像では、軍服を着た国家的な英雄像とは異なり、飾らない人物像が前面に出ています。

ただし、最初から現在の姿に決まっていたわけではありません。制作過程を振り返った関係者の証言などには、当初は陸軍大将の正装姿も検討されていたものの、異論が出て、現在のような姿に変更されたとする説明があります。

そのため、着流し姿の理由を「西郷が普段着を好んだから」という一言だけで説明するのは十分ではありません。制作当時の意匠上の判断や、軍服姿の銅像をめぐる議論も背景にあったと考えられます。

糸子が漏らした「うちの夫はこんな人ではなかった」という言葉

上野公園の西郷像が除幕されたのは、1898年(明治31年)です。除幕式に出席した妻の糸子は、目の前に現れた像を見て、次のように語ったと伝えられています。

「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」

標準語に近い表現にすると、「うちの夫はこんな人ではなかったですよ」という意味です。

この逸話は、糸子が像を見て西郷本人の容貌に不満を示した話として紹介されることがあります。しかし、別の解釈では、問題にしていたのは顔立ちそのものよりも、着流し姿で公衆の目に触れることだったとされています。

当時の礼儀や身だしなみの感覚からすれば、人々が集まる場所に設置される顕彰像は、相応の服装で表現されるべきだという考え方もありました。糸子にとっては、夫が人前でどのように振る舞い、どのような身なりをしていたかという記憶が、像の印象と食い違っていたのかもしれません。

なお、この発言は後世に語り継がれてきた逸話です。紹介される文章によって表現には違いがあり、言葉の意味についても、単純に「像が似ていなかった」と断定するより、服装への不満という解釈を含めて理解する必要があります。

西郷従道はなぜ糸子をたしなめたのか

糸子の発言を聞いた義弟の西郷従道は、彼女をたしなめたと伝えられています。その際の言葉として、次のような内容が紹介されています。

「あの銅像は多くの人々が醵金して建てて下さったものだから、西郷家の者がかれこれ文句がましいことを言ってはなり申さん」

「醵金」とは、複数の人が資金を出し合うことです。つまり従道は、多くの人々の寄付によって実現した顕彰事業なのだから、遺族が公然と不満を述べるべきではないと考えたわけです。

ここから見えてくるのは、個人の記憶と、社会が共有する英雄像との違いです。妻にとっての西郷隆盛は、家庭での振る舞いや礼儀を知る夫でした。一方、銅像を建立した人々にとっては、明治維新に関わった功労者を後世に伝えることが目的でした。

この食い違いこそ、糸子の発言が長く語り継がれてきた理由の一つです。単なる「似ていない銅像」の逸話ではなく、故人を知る家族の視点と、社会が記念碑に託す意味との違いを示すエピソードとして読むことができます。

【1987年の南日本新聞から1988年8月28日へ】古賀忠雄の巨大像が鹿児島に建つまで

鹿児島空港近くに立つ巨大な西郷隆盛像は、彫刻家・古賀忠雄の作品です。現在は霧島市溝辺町麓の西郷公園に設置され、鹿児島を訪れる人々を迎えています。しかし、この像は最初から現在の場所に建てられる予定だったわけではありません。

1977年に制作された像が、倉庫に保管されることに

霧島市の観光案内や古賀忠雄の作品に関する資料によると、この像の原型は1977年(昭和52年)に制作されました。西郷隆盛の没後100年を記念する事業として計画されたもので、古賀忠雄が手がけた大規模な作品です。

ところが、建立計画が中断したため、像は鋳造の途中段階で保管されることになりました。その後、古賀忠雄も1979年に亡くなり、作品は長く日の目を見ない状態が続きます。

この像が完成・公開される道を開いたのが、古賀の長男で彫刻家の古賀晟でした。父の代表作を未完成のまま埋もれさせず、西郷隆盛の故郷である鹿児島に建立したいという思いが、計画の再始動につながっていきます。

1987年、南日本新聞の報道が建立のきっかけに

1987年(昭和62年)、古賀晟が父の十周忌に遺作展を開くにあたり、古賀忠雄の代表作である西郷像を鹿児島に建ててほしいという意向が、南日本新聞で紹介されました。

この報道を受けて建立を発案したのが、溝辺町商工会立志会です。地域の若者や商工関係者らの働きかけに加え、町の協力や人々の浄財によって、像を鹿児島空港近くに建立する計画が具体化しました。

像は海上輸送され、1988年(昭和63年)に鹿児島へ運ばれました。霧島市の観光情報では、同年5月28日に建立され、8月28日に除幕式が行われたと案内されています。建立と除幕は別の日付であり、検索でよく見かける「1988年8月28日」は、完成した像がお披露目された日を指します。

その後、像を中心とした周辺整備が進み、1990年(平成2年)には西郷公園の落成式典が行われました。現在の西郷公園は、巨大な銅像を見学するだけでなく、西郷隆盛や明治維新について知ることができる観光スポットになっています。

活動歴および当時の関連ビジュアル記録
【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:visitkagoshima2023.com)

【歴代の西郷隆盛像を比較】上野・鹿児島市・鹿児島空港前の違い

代表的な3体の西郷隆盛像を比べると、同じ人物でも、建立された時代や場所によって表現が大きく異なることが分かります。作者、制作年、服装、像の規模を整理すると、それぞれの特徴が明確になります。

比較項目上野公園の西郷像鹿児島市の西郷像鹿児島空港前の西郷像
所在地東京都台東区・上野公園鹿児島県鹿児島市・中央公園付近鹿児島県霧島市・西郷公園
作者高村光雲が中心。愛犬は後藤貞行作安藤照古賀忠雄
建立・除幕1898年(明治31年)1937年(昭和12年)1988年(昭和63年)
服装・姿勢着流し姿で犬を連れて歩く陸軍大将の制服姿で立つ袴姿で腕を組む
規模像高約3.7m本体約5.26m、台座込み約8m高さ10.5m、重さ30トンと案内される
主な見どころ親しみやすい姿と愛犬ツン城山を背景にした威厳ある軍服姿圧倒的な大きさと地域の顕彰事業の歴史

上野公園の像については、台東区の公式観光情報や国立国会図書館の関連解説でも、1898年の建立と高村光雲による制作が紹介されています。鹿児島市の像については、鹿児島市や鹿児島県の公式観光情報が、安藤照の作品であることや、1937年5月23日に完成したことを案内しています。

一方、空港前の像は、霧島市や鹿児島県の観光情報によって、高さ10.5メートル、重さ30トンの巨大な銅像として紹介されています。これらの数値は案内上の表記に基づくもので、鹿児島市の像や上野の像と比較すると、その規模の違いが際立ちます。

注目したいのは、像の大きさだけではありません。上野の像は犬を連れた日常的な姿、鹿児島市の像は軍服姿の英雄、空港前の像は堂々と腕を組む巨大な人物像です。これらは単なるポーズの違いではなく、西郷隆盛という人物のどの側面を後世に伝えようとしたのかという、顕彰の方向性の違いを示しています。

【現在の設置場所】鹿児島空港近くの西郷公園へのアクセスと見どころ

古賀忠雄作の西郷隆盛像を実際に見たい場合、訪問先は鹿児島県霧島市溝辺町麓にある西郷公園です。鹿児島空港の目の前に位置し、空港から徒歩ですぐの場所にあります。空港の敷地内にある像ではなく、空港前の公園に設置されている点を押さえておきましょう。

  • 施設名:西郷公園
  • 所在地:鹿児島県霧島市溝辺町麓856-1
  • 営業時間:9時~17時
  • 入園料:無料
  • 休園・休業:年末年始。案内によって具体的な日程の表記に違いがある
  • 駐車場:あり
  • 主な見どころ:古賀忠雄作の巨大な西郷隆盛像、明治維新や西南戦争に関する展示

所在地や施設情報は、霧島市の公式サイトと鹿児島県の公式観光サイトで案内されています。空港に到着してから立ち寄りやすいため、鹿児島旅行の出発時や帰着時に観光コースへ組み込みやすい場所です。

現地で見ておきたいのは、像の高さだけではありません。腕を組んだ袴姿の造形や、周囲の空間との対比にも注目すると、上野公園の像とはまったく異なる印象を受けます。像の前に立つことで、古賀忠雄が手がけた大規模な作品が、なぜ長い保管期間を経て鹿児島で公開されることになったのか、その建立の経緯にも関心が広がるはずです。

公の場での発言・インタビュー報道記録
【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:kagoshimalove.com)

【誤解されやすいポイント】西郷像は本当に本人に似ていないのか

西郷隆盛像について語られるとき、しばしば浮上するのが「実際の西郷隆盛は、上野の像のような顔や体格だったのか」という疑問です。しかし、ここでは像の服装と、顔立ちの再現性を分けて考える必要があります。

写真が残っていないため、顔立ちを単純には比較できない

西郷隆盛本人の容貌を確認できる確実な写真は残されていないとされます。上野の像の顔については、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画などが制作の参考になったと紹介されています。

つまり、現在の銅像を本人の写真と照らし合わせて、どこまで似ているかを客観的に判定することは容易ではありません。糸子の発言が「顔が似ていない」という話として広まった背景には、実物の容貌を直接確認しにくいという事情もあります。

着流し姿への違和感と、本人の容貌への疑問は別の話

糸子の逸話で見落とされやすいのは、像の姿形に対する不満が、必ずしも顔立ちだけを指すわけではないことです。着流し姿で公衆の前に立つ銅像が、礼儀を重んじる夫のイメージと合わなかったという解釈には、当時の身だしなみの感覚が反映されています。

一方で、上野の像は、軍人としての西郷だけでなく、飾らない人物像を伝える表現として親しまれてきました。鹿児島市の軍服姿の像と比較すると、どちらが正しいかという二者択一ではなく、異なる側面を表現した像として見ることができます。

巨大な空港前の像も、着流し姿の像とは別の作品

もう一つ注意したいのが、鹿児島空港前の巨大な像と、上野公園の着流し姿の像を混同しないことです。空港前の像は古賀忠雄の作品で、袴姿で腕を組む造形です。糸子の発言として知られる逸話も、この像の1988年の除幕式ではなく、上野公園の像に関する話です。

検索結果で「西郷隆盛像」「着流し姿」「妻の発言」「鹿児島空港」が一緒に表示されると、同じ出来事のように見えることがあります。しかし、年代と作者、所在地を整理するだけで、1898年の上野公園の逸話と1988年の鹿児島での建立事業を明確に区別できます。

【西郷隆盛像】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:西郷隆盛像はなぜ着流し姿なのですか? A1:上野公園の西郷像は、犬を連れて狩猟に出かけるような姿を表現したものです。制作過程では陸軍大将の正装案も検討されたとする説明があり、現在の姿は単に普段着を好んだという理由だけでは説明しきれません。

Q2:妻・糸子が「うちの夫はこんな人ではなかった」と言ったのは本当ですか? A2:1898年の上野公園の西郷像の除幕式で、そのように語ったという逸話が伝わっています。本人に似ていないという意味で紹介される一方、着流し姿で人前に立つことへの不満だったとする解釈もあります。西郷従道が、寄付によって建てられた像なのだから不満を述べるべきではないと、糸子をたしなめた話も知られています。

Q3:鹿児島空港近くの西郷隆盛像はどこにありますか? A3:鹿児島県霧島市溝辺町麓856-1の西郷公園にあります。鹿児島空港の目の前にあり、入園無料です。施設案内では営業時間は9時~17時とされています。

Q4:鹿児島空港前の西郷隆盛像は誰が制作したのですか? A4:彫刻家の古賀忠雄が制作しました。長男で彫刻家の古賀晟が、父の代表作を鹿児島に建立したいと望み、1987年の南日本新聞の報道をきっかけに、溝辺町商工会立志会などが建立に向けて動きました。

Q5:鹿児島空港前の西郷隆盛像はいつ建立されたのですか? A5:1988年(昭和63年)に建立され、同年8月28日に除幕式が行われました。霧島市の観光情報では、建立日を5月28日、除幕日を8月28日として区別しています。

まとめ:【プロの結論】西郷隆盛像は姿の違いから歴史を読み解く

西郷隆盛像を理解するうえで大切なのは、着流し姿の像だけを基準にしないことです。上野公園の像、鹿児島市の軍服姿の像、鹿児島空港前の巨大な像は、それぞれ異なる時代に、異なる目的と経緯で建立されました。

上野公園の像をめぐる糸子と西郷従道の逸話は、家族が知る故人の姿と、人々が顕彰したい英雄の姿が必ずしも一致しないことを示しています。そして、1987年の南日本新聞の報道から1988年8月28日の除幕式に至る空港前の像の物語は、作者の遺作を故郷に残したいという願いと、地域の人々の協力が一つの記念碑を実現した事例です。

【プロの結論】 西郷隆盛像を比較するときは、作者・制作年・服装・設置場所・建立の経緯という5つの観点から見ると、像ごとの特徴を正確に理解できます。着流し姿をめぐる疑問も、妻の発言だけを切り取るのではなく、当時の礼儀観や銅像制作の背景まで視野を広げることで、より立体的に捉えられます。

2026年に鹿児島を訪れるなら、空港前の西郷公園で巨大な像を見上げるだけでなく、上野公園や鹿児島市の像との違いを思い浮かべてみてください。同じ西郷隆盛を表現した3体を比べることが、幕末から近代にかけての歴史と、後世の人々が西郷に託してきた思いを知る手がかりになります。 (出典: 西郷 隆盛 像(Yahoo!ニュース))