宝仙寺とは?千年近い歴史や節分の僧兵行列、中野町役場跡の見どころを徹底解説
東京都中野区中央二丁目にある宝仙寺(ほうせんじ)は、平安時代に創建されたと伝わる真言宗豊山派の古刹です。山号は明王山。千年近い歴史を持ち、江戸時代には三重塔で知られ、明治時代から昭和初期にかけては中野町役場や中野区役所が境内に置かれた時期もありました。
現在の宝仙寺は、歴史的な寺院建築や石碑を見学できる場所であると同時に、節分の僧兵行列や著名人の葬儀・告別式でも知られています。寺の由来から戦災後の復興、2026年の節分行事、境内の見どころまで、中野の地域史と結び付けながら整理します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 歴史:宝仙寺は寛治年間(1087~1094年)に源義家が創建したと伝えられ、山号は明王山です。
- 地域との関係:明治期から昭和初期にかけて中野町役場が置かれ、中野区の誕生後には区役所として使われた時期もあります。
- 見どころ:昭和28年(1953年)に始まった節分の僧兵行列、再建された三重塔、仁王門、五輪塔などが見学のポイントです。
【宝仙寺の歴史と由来】源義家の伝承から始まる千年近い歩み
宝仙寺の公式サイトに掲載された縁起によると、創建は平安時代後期の寛治年間(1087~1094年)。奥州で後三年の役を平定した源義家が、帰京の途中に陣中で護持していた不動明王像を安置するため、寺を建立したと伝えられています。
創建の舞台とされるのは、現在の中野区ではなく、阿佐ヶ谷の地です。その後、室町時代に寺の中興に関わった僧侶の聖永によって、現在の中野区中央に寺基が移されたとされています。現在地での長い歴史は、こうした移転を経て形成されました。
宝仙寺の山号は「明王山(みょうおうざん)」、正式名称には「聖無動院」という院号が用いられます。山号と寺号の由来について、寺の縁起には、創建時に地主稲荷の神が現れて一顆の珠を源義家に授けたという伝承が記されています。その珠にまつわる言葉から「宝仙寺」と名付けられた、というのが寺に伝わる由来です。
本尊は不動明王です。中野区観光協会の紹介では、奈良・東大寺の開山で知られる良弁の作と伝えられています。不動明王は、密教において煩悩や災厄を退け、人々を救う仏として信仰される存在です。寺の山号にも明王の名が掲げられていることから、不動明王への信仰が宝仙寺の歴史を理解する重要な手掛かりになります。
なお、創建年代や源義家、珠にまつわる由来は、寺に伝わる縁起に基づく伝承です。歴史的な出来事として確認できる記録と、寺院の由緒として受け継がれてきた物語を区別して読むことで、宝仙寺の歴史をより立体的に理解できます。

【宝仙寺の歴史年表】三重塔の建立から戦災復興までを整理
宝仙寺の歩みをたどると、平安時代の創建伝承、江戸時代の寺院文化、近代の行政拠点としての役割、そして戦災からの復興という複数の時代が重なっています。以下は、宝仙寺の公式歴史案内、中野区観光協会、東京都立図書館などの公開資料で紹介されている主な出来事です。
| 年代 | 主な出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1087~1094年 | 源義家が創建したと伝えられる | 平安時代後期にさかのぼる寺の由緒 |
| 室町時代 | 現在の中野区中央へ寺基を移す | 現在地での歴史が始まる |
| 1636年 | 三重塔が建立されたと伝わる | 江戸時代の宝仙寺を象徴する建築となる |
| 明治時代から昭和初期 | 境内に中野町役場が置かれる | 地域行政の拠点としても機能する |
| 1932年 | 中野町と野方町が合併し、中野区が誕生 | 境内の施設が初代中野区役所として使われた時期につながる |
| 1945年 | 戦災により旧来の大伽藍や三重塔が焼失 | 寺院の建築と文化的景観が大きな被害を受ける |
| 1951年頃~1953年 | 本堂の再建が進み、節分の僧兵行列が始まる | 戦後復興と伝統行事の再興が重なる |
| 1992年 | 境内に三重塔が再建される | 江戸時代の景観を伝える象徴が復活する |
宝仙寺の公式歴史案内によると、江戸初期には三重塔が建立され、江戸の人々にも親しまれました。歴代将軍の尊崇を受け、鷹狩りの際の休憩所としても知られていたといいます。寺院が宗教施設としてだけでなく、地域の名所として認識されていたことがうかがえます。
一方、昭和20年(1945年)の戦災は、宝仙寺の景観を大きく変えました。現在の境内にある三重塔は、江戸時代の塔がそのまま残っているものではありません。旧塔は焼失し、平成4年(1992年)に境内で再建されたものです。歴史を知ってから見学すると、現在の建物が持つ復興の意味も見えてきます。
【中野町役場跡の謎】なぜ寺の境内に行政機関が置かれたのか
宝仙寺を特徴付ける意外な歴史の一つが、境内に中野町役場が置かれていたことです。中野区観光協会の「中野町役場跡」の解説や、宝仙寺の境内案内では、明治時代から昭和初期にかけて中野町役場が置かれ、その後、中野区役所として使われた時期もあったと紹介されています。
中野町は、現在の中野区の南部に当たる地域を中心とした自治体です。明治30年(1897年)に町制を施行し、青梅街道沿いの発展や鉄道の開通、人口の増加などを背景に地域の姿を変えていきました。
昭和7年(1932年)には中野町と野方町が合併して中野区が誕生します。その際、宝仙寺境内にあった行政施設は初代中野区役所として利用されました。地域史の紹介によれば、区役所は昭和11年(1936年)に中野駅南口近くへ移転しています。
ただし、寺院の境内に役場があったという事実だけから、当時の行政と宗教が一体だったと考えるのは早計です。自治体の庁舎が現在のような専用施設として整備される以前、既存の土地や建物を行政の場として活用していた地域史の一端として見る必要があります。
境内には、かつての役場の存在を伝える「中野町役場跡碑」があります。歴史的な建築物だけでなく、石碑が地域の記憶を保存している点も宝仙寺の見どころです。寺院の歴史を追うことが、そのまま中野の行政史をたどることにつながります。

【宝仙寺の節分行事】僧兵行列はなぜ始まった?2026年の開催内容
宝仙寺の名物行事として知られるのが、節分会の僧兵行列です。勇ましい僧兵姿の参加者が街を練り歩く光景は、一般的な豆まきとは異なる特色を持っています。その起源は、戦後の寺院復興にさかのぼります。
宝仙寺の公式案内によると、戦災で焼失した寺を復興するため、昭和26年(1951年)頃から本堂の再建が進められていました。その工事の際、かつて僧兵が用いていたと考えられる遺物が発見されたことをきっかけに、昭和28年(1953年)から節分行事に合わせて僧兵の姿を再現するようになりました。
つまり、僧兵行列は単に古い時代の衣装を披露する催しではありません。戦災によって失われた寺の歴史を掘り起こし、復興の過程で新たな地域行事として定着したものです。歴史の再発見と地域の記憶が結び付いている点に、この行事ならではの特徴があります。
行列は僧兵姿の年男や檀信徒らを中心に、総勢約100人に及ぶ規模で行われます。明徳稲荷神社から青梅街道を通り、宝仙寺まで練り歩くのが公式案内で紹介されているルートです。
2026年の宝仙寺公式案内では、節分会柴燈大護摩供は2月3日(火)に開催され、主な予定は次のとおりとされていました。
- 午後3時30分:僧兵行列が出発
- 午後4時:境内で柴燈大護摩供
- 午後4時30分頃:豆まき
柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)は、護摩を焚いて息災や福徳などを祈願する密教の法会です。宝仙寺の公式案内では、節分会を檀信徒や近隣住民、町会の繁栄と息災を祈る行事として紹介しています。
なお、上記は2026年の開催案内に基づく内容です。翌年以降の開催日時、行列への参加方法、交通規制などは年ごとに変更される可能性があります。2027年以降に訪問する場合は、その年の公式案内を確認するのが確実です。
【宝仙寺の見どころ】三重塔・仁王門・五輪塔と著名人の葬儀
宝仙寺は境内が広く、複数の建築物や石碑を通して寺の歴史をたどれます。中野区観光協会や宝仙寺の公式境内案内で紹介されている主な見どころを確認しておきましょう。
三重塔:江戸時代に建立された旧塔は、昭和20年(1945年)の戦災で焼失しました。現在の塔は平成4年(1992年)に再建された飛鳥様式の純木造建築です。旧塔の歴史を知るうえでは、中野区立第十中学校付近にあった三重塔跡についての資料も参考になります。
山門(仁王門):門には阿形・吽形の仁王像が安置されています。寺院を守護する存在として知られる仁王像は、宝仙寺を訪れた際に注目したい建造物の一つです。
本堂と御影堂:本堂には不動明王を中心とする五大明王像が安置されていると、寺の境内案内で紹介されています。御影堂には弘法大師の尊像が安置されており、真言宗の信仰に触れられる場所です。
五輪塔と石碑:境内には鎌倉時代の作と推定される無銘五輪塔や、中野町役場跡碑などがあります。五輪塔は中野区の指定有形文化財として登録されています。寺院の宗教的な歴史と、地域の行政史を同じ境内で見られる点は、宝仙寺ならではの特徴です。
六地蔵・見送り地蔵・臼塚:六地蔵や見送り地蔵のほか、供養のために石臼を積み上げた臼塚も見られます。石臼のような生活道具にまつわる供養の跡は、壮大な寺院建築とは異なる地域の信仰や暮らしを伝えています。
宝仙寺は、著名人の葬儀・告別式が行われる寺院としても知られています。その具体例として、日刊スポーツは2016年12月、元読売ジャイアンツ打撃コーチの荒川博氏の通夜が宝仙寺で営まれたと報じています。葬儀委員長を務めた王貞治氏をはじめ、長嶋茂雄氏ら球界関係者が参列したことも伝えられました。
このような報道は、宝仙寺が著名人を送る場として実際に利用されてきたことを示しています。ただし、すべての著名人の葬儀がここで行われるわけではなく、個々の葬儀の会場は故人や遺族、関係者の判断によって異なります。宝仙寺の特徴を理解する際には、寺院としての歴史や規模と、報道で確認できる個別の葬儀を分けて考えることが大切です。
参拝や見学を考えている場合、所在地は東京都中野区中央2-33-3です。中野区観光協会の案内では、中野坂上駅周辺から訪ねられる歴史スポットとして紹介されています。法要や行事が行われていることもあるため、境内では参拝者や関係者への配慮を忘れずに見学しましょう。

【プロの結論】宝仙寺を訪れる前に知っておきたい3つの視点
宝仙寺を理解するうえで押さえておきたいのは、単に「古い寺」や「節分の名所」として捉えるのではなく、宗教、地域行政、戦後復興という三つの歴史が重なった場所として見ることです。
第一に、創建伝承と確認できる歴史を区別すること。源義家による創建や寺号の由来は寺の縁起に基づく伝承です。一方、江戸時代の三重塔、戦災による焼失、再建された塔、役場跡碑などは、公開資料や現地の史跡を通じて具体的にたどれます。伝承と史料を組み合わせることで、寺の歴史をより正確に読み解けます。
第二に、境内を中野の地域史の資料として見ること。中野町役場跡碑は、寺院が行政施設として使われた時代を伝えています。三重塔の歴史は江戸時代の文化や戦災の影響を示し、僧兵行列は戦後復興の記憶を今に伝えています。複数の時代を一度にたどれる点が、宝仙寺の大きな魅力です。
第三に、見学の目的を明確にすること。歴史建築や石碑をじっくり見たい人には、三重塔や五輪塔、役場跡碑を中心とした境内散策が向いています。地域の伝統行事に関心がある人には、節分会の僧兵行列や柴燈大護摩供が見どころになります。一方、葬儀や法要が行われる宗教施設でもあるため、観光地と同じ感覚で立ち入るのではなく、参拝の場としての性格を尊重する姿勢が必要です。
宝仙寺の魅力は、千年近い歴史という長さだけではありません。寺の由緒を伝える不動明王信仰、江戸時代の三重塔、近代の行政史、戦後の復興行事が、同じ場所に結び付いていることにあります。中野の街の成り立ちを知りたい人にとっても、訪れる価値のある歴史スポットです。
【宝仙寺】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:宝仙寺は何宗のお寺ですか?
A1:宝仙寺は真言宗豊山派の寺院です。山号は明王山で、正式名称には聖無動院という院号が用いられます。本尊は不動明王です。
Q2:宝仙寺はいつ創建されましたか?
A2:寺に伝わる縁起では、平安時代後期の寛治年間(1087~1094年)に源義家が創建したとされています。当初は阿佐ヶ谷の地に建立され、室町時代に現在の中野区中央へ移されたと伝えられています。
Q3:宝仙寺の節分では何が行われますか?
A3:僧兵行列、柴燈大護摩供、豆まきなどが行われます。僧兵行列は、戦災後の本堂再建時に僧兵が用いていたと考えられる遺物が見つかったことをきっかけに、昭和28年(1953年)から始まった行事です。開催日や時間は年ごとの公式案内で確認してください。
まとめ:宝仙寺は中野の歴史と信仰を今に伝える古刹
宝仙寺は、東京都中野区中央二丁目に位置する真言宗豊山派の寺院です。寛治年間の創建伝承、明王山という山号、江戸時代の三重塔、境内に置かれた中野町役場、戦後に再興された節分の僧兵行列など、複数の歴史的な要素を持っています。
境内では三重塔や仁王門、五輪塔、役場跡碑などを通じて、宗教史と地域史の双方に触れられます。著名人の葬儀で知られる背景にも、実際の葬儀報道や寺院としての長い歩みがあります。
宝仙寺を訪れる際は、歴史的な建造物を見るだけでなく、それぞれの場所がどの時代の出来事を伝えているのかを意識すると、散策の理解が深まります。千年近い歴史を持つ古刹は、今も中野の街の記憶を伝える場所として受け継がれています。 (出典: 宝 仙 寺(Yahoo!ニュース))