徳川家康の墓はどこ?久能山東照宮と日光東照宮の真相を2026年最新解説
徳川家康の墓はどこにあるのか。静岡県の久能山東照宮と栃木県の日光東照宮には、それぞれ家康の墓所として知られる場所があり、現在も多くの参拝者が訪れています。両者の関係を理解する鍵は、家康が亡くなった1616年(元和2年)の埋葬と、翌1617年(元和3年)に行われた霊柩の移送、そして側近の以心崇伝が記録した遺言にあります。
久能山東照宮の公式由緒は、家康の遺骸が久能山に埋葬されたと説明しています。一方、日光市の文化財案内は、日光東照宮の奥宮宝塔の下に家康の遺骸が葬られていると紹介しています。両者の説明を並べると、単純に「どちらか一方が墓で、もう一方は墓ではない」とは整理できない問題が浮かび上がります。2026年10月現在の公式案内と歴史史料をもとに、墓所の場所、遺体の行方、日光に祀られた理由、実際の参拝方法まで解説します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:家康は1616年に久能山へ埋葬されたと伝えられ、1617年には霊柩が久能山を出発して日光へ運ばれた記録が残る。
- 要点2:久能山東照宮の神廟と日光東照宮の奥宮宝塔は、どちらも家康の墓所を考えるうえで欠かせない場所。ただし、現在の遺体の所在には史料解釈上の論点が残る。
- 要点3:家康が日光に祀られることを望んだとされる背景には、関東を守護する神としての役割があった。実際に訪れるなら、久能山はロープウェイまたは1,159段の石段、日光は奥宮まで続く207段の石段が目安となる。
【結論】徳川家康の墓はどこにある?久能山と日光の違い
徳川家康の墓所を知りたい場合、まず押さえたいのは、久能山東照宮は1616年の埋葬地として伝えられ、日光東照宮は翌年の霊柩移送と神格化に深く関わる場所だという点です。
久能山東照宮は静岡市駿河区の久能山にあります。本殿の後方に設けられた「神廟(しんびょう)」は、同宮の公式案内によれば、家康の遺骸を埋葬した場所です。現在の石造宝塔は、3代将軍徳川家光の命により1640年(寛永17年)に整備されました。
一方、日光東照宮は栃木県日光市にあります。境内の坂下門を通り、石段を登った先にある「奥宮宝塔(おくみやほうとう)」が、家康の墓所として知られる場所です。日光市の公式文化財案内では、宝塔の下に家康の遺骸が葬られていると説明されています。
両者の違いを理解するうえで大切なのは、墓所と祭祀の中心地を区別することです。神社に神として祀られることと、遺体が埋葬されていることは、必ずしも同じ意味ではありません。家康の遺言として伝わる「日光山に小堂を建てて勧請せよ」という内容も、日光に遺体を移すという指示なのか、神霊を祀るという指示なのかを考える際の重要な手掛かりになります。
久能山東照宮の公式由緒と日光市の文化財案内は、それぞれの場所を家康の遺骸に結び付けています。そのため、現在の遺体の所在をめぐる問題は、1617年の移送記録と各地の伝承、遺言の解釈を分けて検討する必要があります。

【史料で追う】1616年の埋葬から1617年の霊柩移送まで
徳川家康の墓の真相を考えるうえで、出発点になるのが1616年4月17日の死去です。国立公文書館の展示資料「家康の病」によれば、家康は同年1月21日に田中で体調を崩し、駿府城に戻って療養しました。そして4月2日には、本多正純、南光坊天海、以心崇伝らを召し、死後の対応を指示しています。
久能山東照宮の公式由緒は、家康が75歳で亡くなり、遺言に従って久能山に埋葬されたと説明しています。その後、2代将軍徳川秀忠の命によって久能山東照宮が創建されました。社殿の造営は1616年5月に始まり、1617年12月までに進められています。
翌1617年には、家康の霊柩を久能山から日光へ移す動きがありました。江戸東京博物館のレファレンス資料が紹介する『日光市史』などの記録によれば、霊柩は3月15日に久能山を出発。富士山麓の善徳寺、三島、小田原、府中、仙波、忍、佐野、鹿沼などを経て、4月4日に日光山の座禅院へ到着したとされています。
日光市の公式歴史年表にも、1617年3月15日の霊柩出発と4月4日の東照社の遷座が記されています。この一連の出来事は、家康の死後、久能山と日光が別々の場所として突然成立したのではなく、幕府による一連の祭祀政策のなかで結び付いたことを示しています。
| 年月日・時期 | 出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1616年1月21日 | 家康が田中で体調を崩す | 駿府城に戻って療養することになる |
| 1616年4月2日 | 側近らに死後の対応を指示 | 久能山への埋葬や、その後の祭祀を考える重要な日 |
| 1616年4月17日 | 家康が駿府で死去 | 久能山への埋葬と東照宮創建につながる |
| 1617年2月21日 | 「東照大権現」の神号を賜る | 家康の神格化が進む |
| 1617年3月15日 | 霊柩が久能山を出発 | 日光への移送経路をたどる史料が残る |
| 1617年4月4日 | 霊柩が日光山に到着したとされる | 日光における祭祀の展開につながる |
| 1640年 | 久能山の神廟が石造宝塔に改められる | 現在の久能山の墓所景観につながる |
| 1683年 | 日光の宝塔が鋳銅製に改められる | 現在の日光奥宮宝塔の成立につながる |
この年表から読み取れるのは、埋葬、霊柩の移送、神号の授与、神社の整備が連続した出来事だったということです。ただし、霊柩が移送されたという記録だけで、現在の遺体の所在に関するすべての疑問が解消するわけではありません。記録に登場する「霊柩」と、現在の宝塔の内部に何が納められているかは、区別して考える必要があります。
【遺言を読み解く】家康が日光に祀られた理由とは
家康の死後の対応を考えるうえで重要な史料が、側近の僧侶・以心崇伝の日記『本光国師日記』です。久能山東照宮の公式由緒は、この日記を根拠として、家康が死後の埋葬地や葬礼、位牌の安置先、日光での祭祀について指示したと紹介しています。
その内容は、遺体を駿河国の久能山に葬ること、葬礼を江戸の増上寺で行うこと、位牌を三河の大樹寺に納めること、そして一周忌の後に下野国の日光山に小堂を建てて「勧請」することです。ここでいう勧請は、神仏の霊を迎えて祀ることを意味します。
注目すべきなのは、日光についての指示が、単に墓を造るという内容ではなく、神として祀ることと結び付いている点です。家康は「関八州の鎮守」となることを望んだと伝えられています。関八州とは関東地方の八か国を指す表現で、日光での祭祀には、死後も関東を守護する存在として位置付けられる意味がありました。
日光山は、もともと信仰の歴史を持つ山岳霊場です。そこに家康を祀ることで、幕府の権威を神聖な守護の力と結び付けることができました。日光東照宮の成立は、家康個人を弔うためだけの出来事ではなく、徳川政権の安定と権威の継承にも関係していたと考えられます。
家康の神号をめぐっては、以心崇伝らが主張した「大明神」と、天海が主張した「大権現」の違いも知られています。最終的に1617年2月21日、家康には「東照大権現」の神号が贈られました。日光東照宮で家康を祀ることは、こうした神格化の過程と切り離せません。
ただし、「日光に祀る」という遺言と、「遺体を日光へ移す」という指示は同じではありません。『本光国師日記』に伝わる遺言をそのまま読めば、久能山への埋葬と日光での勧請は、別の行為として記述されています。この点が、現在まで続く墓所論争の核心の一つです。

【遺体の行方】久能山と日光、二つの墓所説はなぜ生まれた?
家康の遺体の行方については、久能山と日光の双方に墓所とされる場所が存在し、公式案内にもそれぞれの説明があります。久能山東照宮は神廟を遺骸の埋葬地と説明し、日光市の公式文化財案内は奥宮宝塔の下に家康の遺骸が葬られていると記しています。
この違いを考える際、まず区別したいのが、歴史史料に記録された移送と、現在の遺体の所在を示す証拠です。1617年に霊柩が久能山を出発し、日光へ到着したという記録は、江戸東京博物館のレファレンス資料などからたどれます。しかし、それだけで、遺体がどのような状態で移送されたのか、現在どこに安置されているのかという問題まで、完全に説明できるわけではありません。
日光市の案内によれば、奥宮宝塔は1622年に木造で創建され、その後、石造を経て、1683年に現在の鋳銅製へと改められました。日光の観光案内では、宝塔に納められているのは家康の神柩であり、建立以来、一度も開けられていないと説明されています。
久能山の神廟も、家康の埋葬地として伝えられる重要な場所です。現在の石造宝塔は1640年に造り替えられたもので、久能山東照宮の公式案内は、家康の遺命により西向きに建てられたとしています。
さらに、家康の遺言には別の伝承もあります。産経新聞が2021年に報じた墓所をめぐる記事では、大阪大学の野村玄氏による研究が紹介されています。同氏は、家康の遺言が闘病中に変化した可能性に注目し、『徳川紀伊和歌山家譜』に記された「久能山に一定期間とどまり、その後日光に改葬する」という趣旨の記述を取り上げました。
この説は、『本光国師日記』に基づく従来の説明とは異なる解釈を提示するものです。家康の遺言が一度だけの固定した指示だったのか、それとも病状や死後の政治状況を踏まえて変化したのか。こうした問題は、関連する史料の成立時期や記述の信頼性も含めて検討する必要があります。
2026年10月時点でも、一般に公開された調査によって遺体の所在が決着した状況にはありません。したがって、家康の遺体が久能山に残っている、あるいは日光へ完全に移されたと、すべての論点を解決した事実として断定することはできません。現時点で確実にたどれるのは、久能山への埋葬を伝える由緒、翌年の霊柩移送記録、そして両地に残る墓所の伝承です。
【徹底比較】久能山東照宮の神廟と日光東照宮の奥宮宝塔
久能山東照宮と日光東照宮は、どちらも家康の死後の祭祀を理解するために欠かせない場所ですが、現地で目にする景観や歴史的な意味には違いがあります。
久能山東照宮の神廟は、家康の埋葬地として伝えられる場所です。神廟へ続く参道には石灯籠が並び、社殿の後方に設けられた廟所として、厳かな雰囲気が保たれています。久能山東照宮の公式案内では、現在の石造宝塔の高さは5.5メートルとされています。
久能山東照宮は、家康を祀る全国の東照宮の創祀としても位置付けられています。社殿は国宝に指定されており、徳川政権の初期に造られた建築や装飾の特徴を現在に伝えています。墓所そのものだけでなく、家康の死後に祭祀の体制が整えられた過程を知るうえでも重要です。
日光東照宮の奥宮宝塔は、境内の奥にあります。坂下門を抜け、207段の石段を登った先に位置するため、拝殿や本殿周辺とは異なる静かな空間が広がっています。日光市の公式文化財案内によると、現在の宝塔は1683年に鋳銅製へと改められたものです。
日光東照宮は、家康の神格化と徳川政権の権威を象徴する場所として発展しました。特に3代将軍家光の時代には、東照宮の大規模な造営が進み、現在の華麗な社殿群につながっていきます。墓所としての奥宮と、政治・宗教的な権威を表す社殿群を併せて見ることで、家康が死後にどのような存在として祀られたのかが理解しやすくなります。
どちらを先に訪れるべきかは、関心によって変わります。家康の埋葬地として伝わる場所と、久能山東照宮の成立を中心に知りたいなら久能山から、日光への移送や家康の神格化、徳川幕府の権威を象徴する社殿群を見たいなら日光から訪れると、歴史の流れをつかみやすくなります。

【2026年最新】久能山東照宮・日光東照宮へのアクセスと参拝の注意点
家康の墓所を実際に訪れる場合、久能山と日光では参道の特徴が大きく異なります。どちらも墓所とされる場所まで歩く必要があるため、所要時間や体力に合わせて計画を立てることが大切です。
久能山東照宮へのアクセス
久能山東照宮には、山頂まで車で直接乗り入れる道路がありません。公式の交通案内では、日本平からロープウェイを利用する方法と、久能山下から石段を登る方法が紹介されています。
- 日本平ロープウェイを利用:JR静岡駅から路線バスで日本平ロープウェイ乗り場へ向かい、ロープウェイで久能山へ渡る方法です。ロープウェイの乗車時間は約5分です。車の場合は日本平山頂の駐車場を利用できます。
- 久能山下から徒歩:山下の石鳥居から表参道を登ります。石段は合計1,159段で、公式案内では所要時間の目安は約20分です。段差のある道が続くため、歩きやすい靴が適しています。
足腰への負担を抑えたい人や、初めて訪れる人にはロープウェイ利用が便利です。一方、参道そのものの歴史や、山を登って参拝する過程を体験したい人には徒歩ルートが向いています。ロープウェイの運行時間や料金、拝観時間は変更される場合があるため、訪問当日は久能山東照宮と日本平ロープウェイの公式案内を確認してください。
日光東照宮の奥宮への行き方
日光東照宮へは、JR日光駅または東武日光駅から世界遺産めぐりバスを利用し、「表参道」バス停で降りて徒歩約5分、または「神橋」バス停から徒歩約15分で向かう方法があります。車の場合は、日光インターチェンジから約10分が目安です。これらは日光市の公式観光案内に掲載されているアクセス情報です。
奥宮宝塔へは、日光東照宮の境内に入り、眠り猫で知られる坂下門の先へ進みます。そこから奥宮へ続く207段の石段を登ります。墓所は境内の奥にあるため、社殿の見学だけでなく、奥宮までの移動時間も見込んでおきましょう。
日光東照宮の公式案内では、拝観料は一般の大人・高校生が1,600円、小・中学生が550円とされています。拝観券の種類によって料金が異なる場合があり、季節によって開門時間も変わります。訪問前には最新の拝観案内を確認してください。
久能山はロープウェイと長い石段、日光は広い境内と奥宮への石段が特徴です。両方を同じ旅行で訪れる場合は移動距離も大きいため、1日ですべてを急いで回るより、それぞれの場所で歴史を読み解く時間を確保すると、参拝の満足度が高まります。
【徳川家康の墓】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:徳川家康の墓は久能山と日光のどちらにあるのですか? A1:久能山東照宮は1616年の埋葬地として伝えられ、日光東照宮には翌年の霊柩移送に関する記録と、家康の墓所とされる奥宮宝塔があります。現在の遺体の所在については、史料の解釈に論点が残っています。
Q2:家康の遺体は本当に日光へ移されたのですか? A2:1617年3月15日に霊柩が久能山を出発し、4月4日に日光山へ到着したとする記録が、江戸東京博物館のレファレンス資料などで紹介されています。ただし、移送記録と現在の遺体の所在は別の問題であり、公開された調査によってすべてが確定したわけではありません。
Q3:徳川家康が日光に祀られた理由は何ですか? A3:『本光国師日記』に基づく伝承では、家康は一周忌の後に日光山へ小堂を建てて勧請するよう指示したとされます。関東の守護神となることを望んだという説明があり、日光の信仰上の重要性や、徳川政権の権威を示す政治的な意味も関係していたと考えられます。
Q4:日光東照宮の奥宮宝塔は公開されていますか? A4:奥宮は通常の拝観ルートから訪れることができ、宝塔を外から参拝できます。ただし、宝塔の内部に立ち入って遺体を確認することはできません。日光市の観光案内では、宝塔は建立以来開かれていないと説明されています。
Q5:久能山東照宮へ行くには、1,159段の石段を登る必要がありますか? A5:必ずしも必要ではありません。日本平からロープウェイを利用すれば、久能山へ渡ることができます。徒歩で参拝する場合は、久能山下から続く1,159段の石段を登るルートになります。
Q6:2026年現在、家康の遺体の所在について新しい結論は出ていますか? A6:2026年10月時点で、公開された科学的調査によって所在が確定した状況にはありません。久能山への埋葬を伝える由緒、1617年の霊柩移送記録、日光の奥宮宝塔に関する伝承を区別して考えることが、現在の史料に沿った理解につながります。
まとめ:家康の墓をめぐる謎は、埋葬と神格化を分けて考える
徳川家康の墓をめぐる問題は、単純に久能山と日光のどちらが正しいかを決めるだけでは理解できません。1616年に久能山へ埋葬されたと伝えられること、翌1617年に霊柩が日光へ移送された記録があること、そして日光で家康を神として祀る祭祀が成立したこと。この三つの事実を分けて考える必要があります。
久能山東照宮の神廟は、家康の埋葬地として伝わる場所です。日光東照宮の奥宮宝塔は、霊柩移送と神格化の歴史を考えるうえで欠かせない墓所です。両者は競合するだけの存在ではなく、家康の死後に徳川政権が築いた祭祀の歴史を、それぞれ異なる側面から伝えています。
史料を読み解くうえでは、『本光国師日記』の遺言、日光への霊柩移送記録、各東照宮の公式由緒、そして異なる遺言を示唆する研究を比較することが重要です。遺体の所在について断定できない部分が残っていても、歴史的な経緯そのものは多くの記録からたどることができます。
実際に訪れるなら、久能山では神廟と創建期の社殿、日光では奥宮宝塔と壮麗な社殿群に注目してください。墓所と神として祀られる場所の違いを意識すると、徳川家康の墓はどこにあるのかという疑問から、家康がなぜ日光に祀られ、死後も徳川政権の象徴であり続けたのかという、より深い歴史の理解へとつながります。 (出典: 徳川 家康 の 墓(Yahoo!ニュース))